ひびめも

日々のメモです

地誌的失見当識の総括と分類

Topographical disorientation: a synthesis and taxonomy.
Aguirre, Geoffrey K., and Mark D'Esposito.
Brain 122.9 (1999): 1613-1628.

 

これまた空間探索界隈では極めて有名な論文です。つまみ食いしたことはあったのですが、ちゃんと読んでまとめた方がいいだろうと思って、記事にしました。
このブログ、和訳してるだけ?ってある人に言われたのですが(まあそうと言えばそうなのですが)、直訳でない和訳をしようとすると、訳す過程でしっかりと「理解」の過程を経る必要があるため、単純に英語を英語として読むよりも深い理解をすることができると思っています。英語のまま読んでると、よくわからん単語を適当に雰囲気で流してしまうことはよくあって、中にはその際に誤った理解のまま突き進んでしまうケースもあります。このブログは、そういう誤読をできるだけなくして、深い理解に持ち込むための、自分のための試みとしての要素が大きいです。

 

1. 背景
脳内演算の機能的および解剖学的区画についての説得力のあるエビデンスの一部は、局所的脳障害によって特定の認知障害を呈する患者によって提供されている。ここ百年間で、歩行環境内で道に迷うことなく探索行動をとる、という能力が選択的に障害された患者の報告が、何十個も蓄積されてきた。この種の障害は様々な名前で呼ばれてきたが、「地誌的失見当識」という呼び方が最もよく用いられている。選択的な認知障害がそれに特化した神経システムの存在を示唆するのであれば、地誌的失見当識の症例は大規模環境空間の表現に特化した神経基質のエビデンスとして解釈されるべきであろうか?もしそうならば、こうした疾患は標準的 (normative) な探索能力について何を教えてくれるのであろうか?このレビューでは、まずこうした疑問について取り扱う。
まず初めに、探索行動は複雑かつ多要素から成る行動だということを明らかにしておかなければならない。地点AからBに辿り着くに際しては多くの異なった解法が存在し、人間は様々な状況下でその状況に応じた様々な戦略をとることができる、利口な問題解決者である。このため、地誌的失見当識は多くある認知機能のうちのどの1つの障害でも生じうると言え、この用語自体はかなり曖昧なニュアンスを持っている。さらに、全般的障害 (e.g. 盲、全健忘、認知症) も探索能力に影響を及ぼすということが容易に予想されよう。したがって、まずは探索行動に関与する認知処理について手短に考えることも必要である。こうした努力は、地誌的見当識を失った患者が呈する障害についての語彙を与え、さらに患者の臨床検査結果の解釈について考える上で役に立つ。
過去のフレームワークを概観し、考察したのち、地誌的失見当識の同質性についての考察を行う。地誌的失見当識として記述された患者は全員同じ障害を持っていると言えるのだろうか?そうでないならば、1つ1つの症例はどのように異なっているのだろうか?患者は本当に探索能力のみが選択的に障害されているのだろうか?こうした疑問を扱いながら、地誌的失見当識の分類を行っていく。この体系化は主に患者ごとの障害特性に基づいて行われるが、障害部位も同フレームワーク内で一定の役割を持つ。
地誌的失見当識の文献レビューは、Farrellらの最近の包括的レビューを含め、既に存在している。すると、読者は本文献の必要性に疑問を感じるかもしれない。しかし、本文献は複数の動機に基づいている。まず、直近のレビュー以降も、多くの追加の症例報告がなされている。これらの最近の報告は高分解能の放射線画像 (CTやMRI) を用いており、障害部位の同定に大きな貢献を行っている。さらに重要なのは、本文献で紹介する症例の体系化と解釈は、過去の文献の著者のそれらとは異なっていることである。本レビューを通して、過去の著者の提案について考察を行い、同意できないポイントについての強調を行う。
最後に、症例レビューはどんなに洞察的なものであっても、仮説検証的ではないということについても注目するべきである。本文献の目的は単純化 (parsimony) である。すなわち、本世紀の重要な個々の症例報告から情報を抽出し、最小限の分類に収納することである。この種の努力はその本質としてほぼ無制限の自由度を持っている。結果として、本レビューは心理学と神経生物学における普遍的概念との一致によって判断されうるのかもしれないが、最終的な正確性の判断は、このモデルの推測に基づいた、患者と神経学的に正常な対照に対するさらなる検査によって行われなければならない。

 

2. 標準的な探索 (normative way-finding)
環境心理学は、人間が自身の見渡せる範囲を超えた空間について習得した知識に関して扱っている。この領域は、人間が幅広い環境の中で行うことができる行動の異種性 (heterogeneity) を以前からしばしば強調してきた。自分の近所の地図を描画する能力や、ランドマークへの距離や方向について推測を行う能力や、ある場所から別の場所への経路設計能力は、個人ごとに幅広い差がある。これらの違いは、しばしば個人ごとの変数 (e.g. 性別、年齢、居住年数) や、環境特性 (e.g. ランドマークの密度、道路配置の規則性)、知識習得方法の違い (e.g. 実際の探索による学習 vs 地図による学習) に起因すると考えられてきた。多くの環境心理学研究の基本的原則の1つとして、こうした差は大部分が「表現」方法の違いの結果として生じたと考えられている。人間は、環境についての自身の知識を磨く際、環境への馴染み深さを向上させるだけではなく、経験と共に定性的に異なった方法で知識を表現するようになる。こうした表現への転換は、より正確、柔軟で抽象的な空間的判断を可能にする。特に、環境を経路に基づいて表現する方法と、より「地図」様の表現の2つは、比較のために頻繁に言及される。この2種類は様々な名称で呼ばれている (i.e. routeとconfigural、taxonとlocale、networkとvector-map、proceduralとsurvey) が、一般に同じ基本構造を持っている。
ほとんどの環境表現は、探索上の判断が行われる特定の場所を認識する能力を前提にしている。この知覚能力は、ランドマーク再認と呼ばれ、発達過程の乳児において最初に獲得される「地誌的」能力であると考えられた。人間は、環境の特徴を正確に同定する能力を発達とともに向上させ、発達とともに何が有用なランドマークであるのかについて個人間の違いはほとんどなくなっていく。
経路知識は、スタート地点からランドマークを経て目的地に至るまでの、各段階の一連の記録を符号化した情報である。この表現は、各ランドマークが一定の指示と組み合わさっているおり (i.e. 旧教会で右に曲がる)、これが目的地に辿り着くまで繰り返されるという点で本質的に線形的である。実際、ランドマークと指示の学習は、刺激-応答学習と関係している。学習された経路に沿って、進む距離や曲がる角度、経路上の特徴など、多くの情報が貯蔵されうると考えられるが、人間はしばしば必要最小限の表現しか符号化しないとするエビデンスも存在する。
経路学習についての説明では、その基盤に自己中心的な座標系が存在するということも強調される。身体に関する物体の位置を表現するために、網膜上の画像の位置は、眼窩内での眼球の位置および首の上での頭の位置に関する情報と組み合わさって、いくつかの座標変換が行われると考えられている。これは自己中心的 (または身体中心的) な空間と呼ばれ、左や右といった空間概念が属するドメインである。学習した経路の中では、ランドマークを基準とした自己中心的な位置を表現することで、見当識が維持される (i.e. 食品店の左を通りすぎたら右に曲がる)。経路知識の最後の重要な側面は、その非柔軟性にある。経路は指示の連続を線形的に符号化したものであるため、重要なランドマークの変化や迂回によって、学習された経路が使い物にならなくなってしまうという点で、この表現は脆弱である。
経路学習が自己中心的空間で行われるのに対し、地図様表現は他中心的空間というドメインの中に位置する。他中心的空間では、(観測者を含む) 環境内の物体間の空間的位置関係が強調される。Acredoloは、発達に伴って自己中心的空間表現と他中心的空間表現が分離され、そして成人になるとこれらの2つの座標系表現を持つようになることを示した。他中心的空間の表現を生成するためには、自己中心的な空間判断が、環境内での自己運動の統合的計量と組み合わさる必要がある。現在は自分の右側にある木は、10歩歩いて振り返れば、自分の左側に来る。木というランドマークの自己中心的な位置は変わったが、当然その木は動いてはいない。すなわち、木の他中心的な位置は変わっていない。この不変性は、自己中心的な空間判断と、自身が行ったベクトル運動の計量を組み合わせることで表現可能である。
このような他中心的な座標系表現によって、地図様表現は環境内の場所間の関係性について、ユークリッド計量性を保持していると考えられている。このため、ランドマーク間の角度と距離は容易に導出可能である。さらに、地図は本質的に柔軟であり、O'KeefeとNadelは「経路はスタート地点とゴールおよびそれらを結ぶ特定の移動方向を述べているのに対し、地図はこれらのどれをも特定しておらず、使い方も自由である。地図はどこからどこへ向かうのにも同等に使用可能である。さらに、特定のオブジェクトや行動から解放されることで、さらなる柔軟性が生まれる。もしある経路が遮断されても、別の経路を簡単に見つけ、たどることができる。」と強調している。
人間が異なったタイミングでは異なった探索戦略を用いるという観察は、それらの戦略がどのような状況下でそれぞれ用いられ、そしてどのように成績に影響するのかということに関する研究を導いた。ある場所について文章で説明された場合、その説明が調査的関係性に根ざしていると、人間は地図様表現を形成する傾向があることが実証されている。また、より経路に基づいた説明を受けた場合、人間は当然ながら経路に基づいた表現を形成する。同様に、航空写真地図を提示された場合は、より容易に地図様の表現を生成する。環境の特徴も表現形態に影響を与える。Heftは、比較的未分化な環境 (つまり、ランドマークが少ない環境) では、人間は地図様表現を用いる傾向があることを示唆した。また、ランドマークが豊富な環境では、人間は経路学習を行い、この手法を優先的に使用する。
しかし、年齢や環境への馴染み深さも表現方法の違いの源となる。Piagetらは、子供がその年齢によって、まずランドマーク再認、次に自己中心的経路学習、そして最終的には測量的な他中心的空間表現へと、異なる認知表現を発達させることを提案した。この発達変化は、子供の環境学習についての多くの研究によって確認されている。SiegelとWhiteは、この子供における発達変化と成人での観察に基づいて、環境知識の発達は、空間表現が個々の記憶から横断的な経路に、そしてより抽象的な地図様表現へと定性的にシフトしていくことによって特徴づけられると提唱した。このモデルの一般的な推定、すなわち環境に馴染むとともに調査的測量の推定が改善していくことは多くの研究で確かめられているが、人間は何年も経験した馴染みのある環境でも依然として初歩的な経路知識を維持していることが実証されている。

 

3. 地誌的知識の臨床検査の解釈
上記の大雑把な環境心理学のレビューから得られる重要な教訓は、人間が探索問題に対して用いるテクニックの異種性である。人間が環境に対して生成する表現の種類は、(i) 発達上の年齢、(ii) 環境に対する経験の長さ、(iii) 環境への暴露方法 (i.e. 自己探索なのか地図学習なのか)、(iv) 環境の分化度、(v) 空間内で行おうとしている課題の性質、などに依存する。このように探索戦略が複数、冗長に存在することを考えると、地誌的見当識に関する標準的な臨床検査の解釈はかなり難しくなる。たとえば、患者に自身の住んでいる町の中での経路を述べさせる課題1つをとっても、異なる経路を扱うときに同じ認知処理が働いているとは限らず、そして当然ながら異なる患者についてもそれは同様である。地誌的見当識について一般的に用いられるこれらの検査 (i.e. 経路叙述、地図描画) は、どのような認知処理を必要とするのかという点でほとんど定義がされていないため、観察された特定の障害について事後的な説明を行うことが常に可能となってしまう。
この種の問題は、患者が特定の表現をいくつかある形態の中のどのような形でも貯蔵可能であるということを考えると、ますます深まってくる。たとえば、ベッドサイドで行われる地図描画検査を考えてみよう。患者はある場所 (e.g. 家、町、病院) についての単純な地図を描画するように命じられる。この際我々は、その空間についての他中心的 (i.e. 地図様) な表現が正常であるのか、それとも障害されているのかという点を明らかにするためにこの検査を行っている。しかし、他中心的表現を持たずとも、場所の地図描画を行うことは可能である。たとえば、場所についての完全な経路知識を、各経路セグメントの相対的経路長についての知識と組み合わせることで、正確な地図描画を十分に行うことができる。このため、患者が地図描画を行うことができても、必ずしもその患者がその場所についての他中心的表現を所持または考慮していたとは限らない。また、人間がその場所についての地図表現を何度も体験していることで、「画像様」表現を獲得することもある。たとえば、もし過去に何度も自身の家や町の地図を描く機会があったのであれば、まるで物体の絵を描くようにしてその場所の地図を描くことが可能であろう。
同様にして、地誌的表現の単一領域の障害で、表面的には異なった領域の能力を検査するための検査で成績低下が見られることがある。たとえば、熟知した場所における経路を述べるように患者に命じるのは、基本的には自己中心的な空間知識が保たれていることを調べるために行われている。しかし、経路の言語的叙述に慣れていない場合は、我々はその叙述を行うために実際に経路上を歩いていることを想像しながらその課題に取り組まなければならない。この場合、ランドマークの外観に関する情報の表現やその操作能力の障害でも、成績の低下が見られうる。このため、もしある患者が地図描画検査の時くらいでしか地図様表現を生成する機会がなく (もともと地図様表現を持っていなかった)、さらに地図描画が経路表現に依存し、そして経路表現が環境ランドマークの正常な表現を必要とする可能性を考えると、一次的なランドマーク再認障害によって三次的な地図描画障害が起こることすら考えられるのである。
では、我々は地誌的失見当識についての文献をどのように解釈すればよいのだろうか?これらの疾患について推測的対処を行うために可能な唯一の方法は、その障害の本質に関する追加の情報を得ることのみである。1つの簡単な方法は、患者の障害に関する説明を信用することである。後述するように、地誌的失見当識のいくつかのカテゴリーでは、患者間の主訴がかなり一貫している。これらの報告が十分に明確で一致する場合、理論化のための合理的な根拠となる。しかし、当然ながら、この方法にも限界がある。De RenziとFaglioniの例では、建物や環境特徴の再認は保たれているという患者の主張が、実際の成績と食い違っていたのである。
地形的障害の解釈には、より明確な解釈のできる臨床検査を追加することも可能である。視覚的刺激に特異的な記憶の障害や、自己中心的空間表現の障害の証明は、特に有用であった。より複雑な臨床検査も採用されているが、これらは本来の患者の障害と同様に、様々な解釈にさらされることが多い。例えば、スタイラス迷路課題は、同一のボルトヘッドの配列の中を通る見えない経路を学習するもので、広く用いられてきた。迷路学習と実世界の探索という漠然とした類似性はあるものの、この課題をうまく完了できないのは、空間探索と無関係の多くの認知障害が原因となっている可能性が考えられている。実際、この課題を採用した神経心理学的研究によれば、スタイラス迷路課題で障害のある患者の多くは、実世界の見当識の問題を全く抱えておらず、そしてその逆も然りである、と指摘されている。
患者が障害を代償する能力や、そのために用いるテクニックも参考になる。たとえば、一部の患者では極めて細かな環境内特徴の膨大な集積、たとえばドアノブや郵便受け、公園のベンチなどの違いを参考にしながら探索を行っていることが報告されている。以下で議論するように、この代償的な戦略は、その患者の障害の本質と保たれた認知機能の両方について情報を与えてくれる。最後に、伝統的な「地図描画」と「経路叙述」検査はいくつかの状況下では有用な情報を与えてくれる。たとえば、障害を受けるまでに経験したことがない環境について、その環境を直接的に探索した経験しか持たない (その環境について地図を見たり説明を受けたりしたことがない) 状態で、その地図を正確に描画できる患者について考えてみよう。この場合、この患者では空間内の関係性を表現する能力 (自己中心的または他中心的) が正常に保たれているのは間違いない。このように、これらの「寓話的」な臨床検査を用いて、表現技術が"保たれている"ことを実証できれば、"障害"を実証するよりもわずかながらも高い確度度を持って解釈することができよう。

 

4. 初期の症例と過去のフレームワーク
Meyerら (1900) の3人の患者の報告は、もっと古い症例報告も存在するものの、地誌的失見当識に関する一番最初の包括的研究であった。Meyerの最初の患者は49歳男性で、血管病変後の左同名半盲と重度の見当識障害を呈していた。この患者は、知性、視覚、記憶には全く問題がないにもかかわらず、自分の住む町での迷い、病院内の道順も覚えることができなかった。彼は、自宅と町の主要な公共施設との間の経路を説明したり、描いたりすることができなかった。また、外観から場所を再認することが非常に困難であり、細部を観察することによってのみ、その場所を推測することができた。そのため、病院のどの病室が自分の病室であるかは、同室の男の黒ひげを見ればわかる程度であった。Meyerの患者とは対照的に、HolmesとHorraxや、Brainが述べた地誌的失見当識患者は、物の距離や方向を判断できないなど、その場の空間認知に著しい障害を抱えていた。
これらの症例と彼ら自身の患者 (詳細は後述) を考慮し、PatersonとZangwillはこの障害を「特異的地誌的失認」の一つであると提唱している。これは、空間的距離や建物の種類 (教会、学校など) といった、環境情報の大分類が再認できても、これらの地誌的特徴の具体的な例を視覚的に同定することができないという意味であると思われる。つまり、MilnerとTeuberの言葉を借りれば、これらの患者は地誌的な意味を取り除けば正常な環境知覚能力を持っているということになる。
その後、多くの著者がこの用語を採用・拡張し、しばしばこの障害は地誌的失認ではなく、健忘と表現する方がよいと主張している。しかし、これらのやや曖昧な用語の適用は、むしろ少数派であった。Farrellが鋭く指摘したように、PatersonとZangwillは最初の論文でこれらのカテゴリーを明確に区別していない。しかしその後、この用語はさまざまな障害に適用されるようになり、さまざまな著者が、どのような理論的問題があるかを特に明確に述べることなく、それぞれの特定の患者群における失認あるいは健忘の優位性を主張するようになったのである。例えば、ある著者は、地誌的健忘は主に空間記憶の障害であり、地誌的失認は環境知覚の障害であると解釈している。また、地誌的健忘を「視空間」障害、地誌的健忘を「視覚記憶」障害と考える者もいる。さらに、失認と健忘のそれぞれが空間・知覚的に異なるカテゴリーに細分化されたり、失認および健忘がそれぞれ環境特徴に対する再認および既知感の障害と同一視されたりしている。また、空間情報の失認、ランドマーク情報の失認、空間情報の健忘など、こうした多様さをすべて認識している著者もいる。現実問題として、過去数十年にわたるこれらの用語の使用と進化について詳細な説明をすることは、かなり困難である。というのも、これらの用語が展開された文脈と、それらが暗黙的に包含する神経組織のモデルは、ほとんど慎重に取り上げられることがないからである。その結果、地誌的失見当識を示す患者の具体的な障害特性について混乱が生じ、この一連の文献に関する明確な理論化が全般的に妨げられてきたのである。
1985年、Levineたちは、以前の著者たちの足跡をたどり、地誌的障害をもつ患者は、空間的視覚情報の表現に障害をもつ患者と、物体視覚情報の表現に障害をもつ患者の2群に分けることがより有益であることを提案した。この提案は、現在広く受け入れられている視覚処理の「dual stream」モデルに基づくもので、このモデルでは空間的位置 (where) と物体識別 (what) の分析が、それぞれ分離可能な背側および腹側の後方皮質領域によって担当されると考えられている。彼らはまた、2つの症例を提示したが、そのうちの2つ目が彼の主張に関連していた。症例2は、右頭頂・後頭部血腫のために、他の障害と並んで他誌的な混乱を来たしている男性であった。出血後4ヵ月目には、彼は自分の家の中でしばしば迷子になった。空間的な心的イメージ (自己中心的か他中心的かはわからないが、空間表現と同じだと思われる) は著しく障害されていた。自宅から、5年以上前から週に数回行っていたスーパーマーケットまでの経路を口述することができなかった。一方で、彼は (おそらく写真や実物を見て) その店や店主のことを説明することができた。
この患者の障害は、著者らに、(ランドマークの) 視覚的なイメージ (再認) と知覚が損なわれていなくても、重度の空間見当識障害が存在しうることを示唆した。さらに彼らは、既報の症例を検討した結果、視覚-物体障害に特異的だと考えられていた相貌失認は、空間見当識障害を伴わずに存在しうることを主張した。そして、「相貌失認の患者はランドマークを再認できないために道に迷うが、視覚性失見当識の患者はランドマークを再認できるものの、ランドマークに対してどのように体の向きを変えればよいのかがわからないため、道に迷う」と述べ、基本的な障害の違いによって経路追跡が障害される可能性があると主張した。つまり、Levineたちは、顕著なランドマークの同定に必要なシステムと、空間的位置の表現に必要なシステムという、2つの別々のシステムの病変が、地誌的失見当識につながる可能性を示唆したのである。
Levineたちの定式化は、地誌的失見当識を考える上で有望な理論的フレームワークを提供したが、限定的なものではあった。第一に、彼らは視覚-物体障害および視覚-空間障害についての寓話的な報告に関して、相貌失認の文献を振り返ったが、ランドマーク再認の障害が実証されたものの視覚-空間能力が保たれていることが実証された症例は提示されなかった。このため、このレビューではたとえば色覚と空間見当識が個別に障害されうることを示すことができたが、地誌に特異的な視覚-物体能力 (つまりランドマーク再認) および空間見当識の独立性についてはエビデンスが示されなかった。第二に、著者らは視覚-物体障害による地誌的失見当識は相貌失認を起こすのと同じ障害の結果であると提案した。彼らはしばしば、文献中で相貌失認と視覚-物体障害による地誌的失見当識を、言語ラベル的にも同一視して扱った。この主張は、これら2つの障害が独立に起こりうるというエビデンス (下記) と矛盾する。最後に、この「what/where」に区分するモデルは、背側皮質に貯蔵されていると推定される空間表現の種類や、地誌的知識が選択的に障害されることについては考慮していない。
1995年にMilnerとGoodaleによって提示された別のモデルは、Levineらの説明の基盤となる大脳皮質の肉眼的機能構成に疑問を呈した。彼らは「dorsal/ventral - where/what」モデルを批判し、背側および腹側領域の両方が、場所 (where) および識別情報 (what) の両方を処理すると考えた。ただし彼らは、この処理は領域ごとに異なった目的を持っており、背側経路は動作 (action) のために、腹側経路は識別 (identification) のために機能すると考えた。地誌的表現の範囲では、背側領域は自己中心的空間情報を表現し、腹側領域はランドマーク同定と他中心的空間表現の両方に寄与すると考えた。しかし、腹側システムについては、MilnerとGoodaleの説明では (i) これら2つの機能が行動的に関連しているのか、(ii) ランドマークと他中心的空間機能の両方を支える同一の神経基質が存在するのか、という点について明確になってはいない。
これとは関係なく、MilnerとGoodaleはわずか数症例だが地誌的失見当識について記述を行ったが、これらのいくつかは上記モデルとは特に関連づけられなかった。その後、Farrellらの努力によって、LevineのモデルとMilnerとGoodaleのモデルを比較するべく、地誌的失見当識の文献が包括的にレビューされた。Farrellは、Levineのモデルを支持する強いエビデンスはなく、その代わりにMilnerとGoodaleのフレームワークは既存の地誌的失見当識の文献とよく一致していると主張した。特に、FarrellはMilnerとGoodaleの「知覚/動作」の観点からの説明を、「このモデルは、オブジェクトの同定と空間的関係性の知識の二重解離を予測しない。なぜならば、これらは同一の神経サブシステムによって支えられているからである。」と述べ、ランドマーク再認と他中心的空間表現は同一の神経基質によって支えられていると解釈した。
このため、Farrellの解釈はLevineらのモデルは異なるいくつかの推測を生む。(i) ランドマーク再認が保たれているものの空間表現が障害されている患者では、自己中心的な空間表現の障害が起きているはずである。(ii) ランドマーク再認が障害されているものの空間表現が保たれている患者は存在しないはずである。(iii) ランドマーク同定と他中心的空間表現の両方が障害された、腹側領域の障害を持つ患者が存在するはずである。これら3つの中で、(i)のように、背側頭頂葉領域の障害が自己中心的な空間見当識障害のみを引き起こすというFarrellの考えは、既存の文献によって支持されている。後に、我々はこの種の「自己中心的地誌的失見当識」の症例をいくつか記述する。しかしながら、Farrellのモデルによるその他の推測は、強く肯定できるものではない。
第一に、単一の腹側領域の障害によってランドマーク再認と他中心的空間表現の両方が同時に障害された患者の存在を示すエビデンスは、ほとんど存在しない。Farrellがこのような両方の障害を持つ例として引用した症例の多くは、損傷部位が未知であったり、巨大であったり、分散していたりしていた。また、Farrellが空間的失見当識として引用した症例のうち2例は、ランドマーク再認の障害のみを有しており、別の1つの症例では腹側領域の損傷によって空間的関係知識のみが障害されていた。さらにFarrellは、空間的障害が単独で生じたと主張している症例報告のうちいくつかでは、視覚的再認が保たれていることが検査されていないと記述していた。
第二に、空間表現が保たれていてもランドマーク再認の障害が起こるというエビデンスが存在する。こうした症例の存在は、単一の神経解剖学的基質がランドマークの同定およびそれらの相対的な位置関係の表現に関わるという主張とは相いれないものである。

 

5. 地誌的失見当識の分類
では、空間探索および地誌的失見当識に関する神経システムの構成について、我々は何を言うことができるのだろうか?我々は、LevineらとFarrellの両者の説明に基礎を置きつつも、これらのフレームワークを改善・拡張し、そして文献内の症例を分類した。我々は、3つのカテゴリを定義し、さらに4つ目の可能性を示す。これらの分類は、症例ごとの自然な「断層線」を反映しており、さらに最も一般的な障害部位の機能構成によっても支持される。これらのカテゴリのうち1つ目は、MilnerとGoodaleの提案と合致しており、後部頭頂葉皮質の障害が自己中心的空間表現に根差した失見当識を生むというものである。2つ目は、「頭位 (heading)」の表現が選択的に障害されるものである。この分類は、少数ながらも興味深い症例の集まりによって示唆される。これらの「heading disorientation (以下、道順障害と呼ぶ)」と関連する障害部位には、非常に興味深いことに、齧歯類で「頭位方向細胞 (head-direction cells)」が報告されている。3つ目に、我々は腹側皮質の独立した障害によって、環境内の際立ったランドマークを再認することができなくなる「ランドマーク失認」が起こることを提案する。この3つ目のカテゴリはLevineらが提案したものと似ているが、重要な違いがある。特に、我々はこの障害がランドマークの表現に特化したシステムへのダメージによって起こるものであり、一般的な物体認知システムへの障害とは異なっていると考える。これらの症例はもっとも多く、よく研究されているため、我々はこのカテゴリについて最も長い記述を行う。次に、いくつかの症例において、海馬傍回の障害で主に前向性の地誌的見当識の障害が起こることが示唆されている。しかしながら、これらの症例をランドマーク失認と区別することの難しさについても議論する。最後に我々は、地誌的見当識における海馬の機能についても議論する。なぜならば、この構造は齧歯類の空間探索について非常によく研究されているからである。そして、このような議論を行いながら、上述の各カテゴリと関連付ける目的で、機能的神経画像研究の最近の観察についても言及する。

5-1. 自己中心的地誌的失見当識 (egocentric disorientation)
最初の患者グループは、伝統的に「地誌的見当識が障害されている」とラベルされていたものの、厳密にいえば地誌的ドメインに障害が限局していないものである。自己中心的地誌的失見当識の症例は複数報告されており、これにはMNN (Kaseら, 1997)、Mr Smith (HanleyとDavis, 1995)、GW (Starkら, 1996)、HolmesとHoraxの症例 (1919) が含まれる。特に、Levineらの症例2 (1985) が代表的である。

最も顕著な異常は、視覚と空間にあった ... 彼は、それがたとえ同定できた視覚的物体であっても、中心視野に提示されているか周辺視野に提示されているかにかかわらず、その物体に正確に手を伸ばすことができなかった。2つの物体を見せ、どちらが近いか遠いか、上か下か、あるいは右か左か、を尋ねると、頻繁に間違いが見られた。彼は道に迷った。出血後4ヵ月目には、しばしば自分の家の中で迷い、同伴者なしには決して外出しなかった。空間表現は重度に障害されていた。彼は、自宅から、5年以上前から週に数回行っていたスーパーマーケットまでの経路を口述することができなかった。一方、彼はその店や店主のことを説明することができた。経路の説明はしばしば風変わりな印象があり、「私は1ブロック先に住んでいて、入り口まで直接歩いて行きます」と言った。玄関から歩いて出るときにどちらへ曲がるかと聞かれると、「右でも左でもどっちでもいい」と答えた。... 彼は、自室に座って目隠しをされた上で、検査者が指示した物体を指差すように命じられた際、極めて悪い成績を示した。

これらの患者は、グループ全体として、自分を基準とした物体の相対的位置の表現に重度な障害を呈した。彼らは視覚化された物体を指さすことができたが、目を閉じるとこの能力は完全に失われた。心的回転や、空間スパン課題など、幅広い視覚-空間課題で成績の低下が見られた。以上から、この障害を自己中心的空間フレームの範疇に位置づけるのは適切であると思われた。実際、Starkらはこれらの症例のうち1つ (GW) が、自己中心的座標系の中の情報を表現する空間地図に持続的な障害を持つことを提案した。興味深いことに、これらの症例から、即時的な自己中心的位置情報を提供する神経システムが、この種の情報を貯蔵するシステムとは独立して動作しうることが示唆された。
これらの患者たちは、馴染みのある場所および新規の環境の両方における探索行動が均一に障害されていた。ほとんどが病院や家に閉じこもり、同伴者なしでは外出しようとしなかった。経路叙述は語彙に乏しく不正確なものとなり、地図描画も障害されていた。これらの障害とは対照的に、視覚-物体再認は保たれていたと報告されている。患者MNNは「物体の名前をためらいなく答えることができ、視覚モダリティにおける失認は存在しないと考えられた」。患者GWは「人物や物体の再認に問題は認めず」、Levineらの症例2も「一般的な物体、物体や動物の写真、家族や有名人などの熟知相貌の同定」ができた。
不幸にも、彼らは「ランドマーク刺激」を用いた視覚的再認タスクを特異的に検査されてはいなかった。上で述べたように、Levineらは食品店について述べ、その特徴を言うことができたが、これは厳密な検査ではない。このため、自己中心的地誌的失見当識の患者では、物体や相貌の再認能力が保たれていることは実証できているが、地誌的な刺激を用いた再認タスクで障害が認められる可能性は残っている。よって、これらの検査が行われるまでは、我々はこれらの患者が空間ドメインに限局した障害を有するという可能性についてしか言及できない。
これらの患者の探索の障害は、自己中心的空間における重度の失見当識によって生じるものだという考えはもっともらしく見える。背景で議論した通り、経路に基づいた大規模環境の表現は、自己中心的空間ドメインによって形成されている。この空間表現の特性は、半側空間無視患者における経路叙述研究を行ったBisiachらによってよく記述されている。患者が歩いていることを想像するように命じられた向きに関わらず、左側に曲がることが無視される傾向にあった。このため、自己中心的空間地誌的失見当識はこうした地誌的障害を説明するのに十分であると考えられた。この意味で言えば、これらの患者で選択的に地誌のみが障害されていると言うのは適切ではなく、彼らの障害は大規模環境空間の表現に限局しない、複数の空間表現の形態を含む障害なのかもしれない。
障害部位のデータが明らかでないMr Smithを除き、すべての自己中心的地誌的失見当識の患者は両側または右半球の後部頭頂葉、特に上頭頂小葉の障害が認められた。サルや齧歯類で行われた行動神経心理学研究では、後部頭頂葉皮質が物体の位置を自己中心的空間フレームで表現しているという考え方が支持されている。また、サルのホモログ皮質領域には、刺激の網膜上位置および頭中心的座標の両方を同時に表現する発火特性を示す細胞が存在することが示されている。特に、齧歯類では他中心的発火特性を持つ細胞は同定されておらず、代わりに自己中心的位置と自己運動の複雑な結合情報に反応する細胞が報告されている。
まとめると、両側または右の頭頂葉障害によって、視覚的再認能力は正常に保たれているものの、自己中心的な空間関係の把握に重度な障害を示す患者群が存在するということである。この基本的な空間障害の結果の1つとして、物体の空間的方向を、正常に知覚されたランドマークと関連づけて学習および再生することができず、全般的な地誌的失見当識を生じるのだと考えられる。

5-2. 道順障害 (heading disorientation)
先ほどの患者群は、自己中心的空間の基本的な障害に根差した全般的な空間失見当識を示したが、2つ目の患者群は他中心的空間表現が選択的に障害されうるという興味深い可能性を提示する。際立ったランドマークの再認障害や自己中心的地誌的失見当識を持たない患者が、少ないながらも報告されている。代わりに、これらの患者では、再認したランドマークから方向情報を引き出すことができない。彼らは、他中心的な方向感覚、すなわち環境内での「頭位」に関する感覚を失ってしまっているように見える。こうした症例は未だ極めて少なく、さらに十分な検査も行われていないため、これらの観測は暫定的なものだと考えておきたい。
高橋らが報告した3人の患者は、このカテゴリの中では最もよく研究されている。症例2は特にこのグループを代表している。

同市街をタクシーで運転中、彼は突然目的地への経路がわからなくなった。周囲の建物や景観から、自分の現在位置を再認することは可能であった。しかし、彼はどの方向に進めばよいのかがわからなくなった。彼は乗客を降ろし、本部に戻ろうとしたが、やはりどの方角に進めばいいのかがわからなかった。身の回りの建物や景観、道路標識を利用して、最終的に本部に戻ることができたが、道中で何回も間違った道に入ってしまった。彼は、何度も何度も同じ場所を通ってしまったと話した。

3人とも、再認できた際立ったランドマークから、方向情報を導くことができなかった。しかし、彼らは自己中心的地誌的失見当識の患者とはかなり異なった像を呈していた。高橋らは、これらの症例では視空間失認 (Balint症候群や半側空間無視) を認めなかったと報告しており、自己中心的空間における全般的な失見当識とは異なっていると考えられる。むしろ、これらの症例はランドマークと方向情報の関係性を再生または形成できないのだと思われた。
高橋らは、この3症例について、上述の観測を確かめるべく、複数の検査をおこなっている。彼らが依然としてランドマークを再認することができるという主張は、一連の検査によって確認された。彼らは「いくつかの写真を見せられても建物同士を区別することができ」ており、馴染みのある建物や景観の写真を再認することができた。また、自己中心的空間の基本的な表現も保たれていることが示された。高橋らの症例の1つ目と2つ目は、部屋の中の物体の位置の記憶について検査された。「... 検査室内の7つの物体 (本棚、エアコン、テレビなど) を指示し、これらを呼称するよう命じた。5分後、両患者ともに、これらの物体の位置を良好に再生できた。... さらに、両患者ともに病院の窓から見える5つの物体 (倉庫、電柱など) の名前と位置を正確に再生することができた。」
Normal Corsi blockの成績も、患者2では保たれていた。一方で、この種の検査の成績は自己中心的地誌的失見当識グループでは著明に障害されていた。
こうしたランドマーク再認や自己中心的な空間記憶の検査の成績が保たれていたのとは対照的に、高橋らの症例は過去に学習した地誌的知識の再生と、新規の情報の学習が障害されていた。たとえば、患者1と患者2は地図描画タスクで著明な障害が認められ、さらに3人とも馴染みのある場所間の経路を述べることができず、また場所と場所の間の位置 (方向) 関係を述べることもできなかった。加えて、3人とも病院内の地図描画ができなかった。以上から、彼らはランドマークの再認や自己中心的な空間関係の表現に障害がないのにも関わらず地誌的失見当識を呈していることがわかる。では、一体この障害の本質は何なのだろうか?
高橋らは、彼らの患者が、自分の現在位置と見えない目的地の間の位置的関係を再生する際に用いられる「方向感覚」を失っていると提案した。この記述は、これらの患者で報告された障害の特性を捉えており、さらに彼らの障害部位を考えると非常に興味深い。すなわち、右脳梁膨大後部 (つまり帯状回後部) 領域である。齧歯類の研究では、ラットが特定の頭位、すなわち環境内での特定の向き (orientation) を維持している際に発火する少数の細胞集団が、この領域で認められている。これらの細胞は後に頭位方向細胞と呼ばれるようになった。この細胞は、ランドマーク、前庭感覚、自己運動手掛かりに基づいたシグナルを生成している可能性がある。大規模空間スキームの中での身体の向きを表現するのは、経路および地図に基づく探索のいずれにも利用されると思われる空間表現であり、高橋らが報告した患者に観察された障害を説明するものであろう。
帯状回の障害に伴う地誌的失見当識の患者は、他にも1例報告されている。患者MBは 「一過性地誌的健忘」を患った。彼は、「家に戻っている最中、自分がどこを歩いているのかはわかっていたし、道端にある店やカフェのことも認識できていたのだけど、突然どの道を通ればいいのかわからなくなったんです。前に進めばいいのか、後ろに戻ればいいのか、右と左のどちらに曲がればいいのか...」不幸にも、MBは何の検査もされておらず、存在するのは患者の訴えのみであった。
しかし、「脳梁膨大後部健忘」では空間見当識の障害は報告されていないため、帯状回周囲の障害によって頭位の知覚が選択的に障害されるという可能性は下がる。
他にも、右視床の背内側部および後外側部の障害によって一過性の地誌的失見当識が生じたとする報告もある。この患者についての詳細は記述されていないため、ここでこの症例に言及したのは単なる興味のためであるが、実は齧歯類視床背外側部では頭位方向細胞が同定されている。
空間内での頭位の表現が選択的に障害されているという可能性は、興味深いものである。これらの患者は、自己中心的地誌的失見当識と分類される患者とは異なる障害群を有しており、こうした症例の存在は、別々の皮質領域が異なる空間表現フレームを媒介することを示唆している。しかし、この障害の性質をより明確にするためには、さらなる患者の追加と、より広範な検査が必要であることは明らかである。

5-3. ランドマーク失認 (landmark agnosia)
地誌的失見当識の3つ目の分類は、ランドマークの失認と表現されるべき障害を持つ患者群である。この群の障害の中核は、顕著な、際立った環境特徴を、自身の見当識付けのために用いることができない点にある。まず気をつけなければいけないのは、名前こそ似ているが、このカテゴリはPatersonとZangwillが記述した「地誌的失認」とは異なっているという点である。第一に、ランドマーク失認患者は、環境情報 (つまり物体および空間) の基本的な知覚には障害を認めない。その代わり、際立った環境特徴に限局した視覚的再認障害が認められる。第二に、ランドマーク失認患者は知覚が完全に正確に保たれているとは考えられていない。より広い分類である物体失認に関する記述にあったように、十分に厳密に検査を行うと、連合型失認患者は知覚能力に障害が認められる。最後に、ランドマーク失認患者では知覚および記憶を司る基質の両方に障害が認められることが提案されているように、これらの患者は新規および馴染みのある環境の両方で失見当識を示す。
このカテゴリでは、よく研究された症例がいくつか存在する。たとえば、患者J.C. (WhiteleyとWarrington、1978)、A.R. (Hécaenら、1980)、SE (McCarthyら、1996)、M.S. (Incisa della Rocchettaら、1996)、Landisらの数症例 (1986)、高橋らの数症例 (1989)、船川らの症例 (1994)、鈴木らの症例 (1996) などがある。最も早期かつ包括的な記述が行われていたうちの1つとして、Pallisら (1995) の症例のうち、患者A.H.が挙げられる。
彼は場所を再認することができなかった。「心の目では、自分がどこにいて、どのように目に映る場所なのかをわかっているのです。私はT ... Squareを難なく描けますし、そこに入ってくる道も描けます。 ... CardiffからRhondda Valleyまでの道のりだって描けます。 ... 問題はその先なのです。論理的に考えれば、私はどこかしらの場所にいるはずだということはわかりますが、それがどこなのかが認識できないのです。毎回毎回、頑張る必要があるのです。... たとえばある夜、私は間違った道に入ってしまい、飲み物を買うために郵便局に行ってしまったのです。」彼は新規の地誌的データの学習が困難であった。「私が思い出せないのは昔から知っていた場所だけではありません。私を今日、新しい場所に連れて行ってみてください。明日には辿り着けなくなっていますから。」彼の地誌的記憶は良好で、職場である坑道の経路、道、レイアウトを正確に記述することができたし、病前から馴染みのあった場所の地図を描くことも全くもって正常に可能であった。無視や知覚障害は認められず、物体位置の再生は完璧であった。彼は、自分のおかれた現実と頭の中の計画を調和させることに困難を感じていただろう。「まるで暗記した指示に従うかのように、ずっと頭の中に経路のイメージを持ち続け、曲がった回数を数えなければならないのです。」彼は、一目見ただけで、テラスハウスと戸建て別荘、居間と事務所、田舎道と幹線道路を見分けることができた。
この記載については、いくつかの特記すべき際立った特徴がある。第一に、A.H.は以前から馴染みのあった環境と新規の場所の両方で失見当識を示した。第二に、地図描画が保たれていたように、彼の空間情報の操作能力は保たれていた。第三に、建物の種類を区別することができたが、彼は特定の建物を同定することができなかった。これらの3つの特徴は、上に挙げた症例の全てで共通していた。彼は、馴染みのある環境に関する空間情報を提示する能力こそ保たれていたが、際立ったランドマークを再認することができないために道に迷ったのだ。
このランドマーク再認に比較的特異的な障害は、何人かの著者によって、有名な建物の写真を同定させるという手段を用いて、形式的に確認された。患者S.E.は、有名なランドマークの写真について、名前やその情報を再生することが全くできなかった。正常対照に同課題を行わせると、その成績は良好であったし、彼自身の有名人の情報の再生能力は保たれていた。患者M.S.は、(i) 複雑な街並風景、(ii) 馴染みのない建物、(iii) 田舎の風景、の3種類の写真を用いた遅延再認記憶課題で、偶然レベルの正答率しか示すことができなかった。M.S.は、馴染みがあったはずのロンドンのランドマークの再認も障害されていた。高橋らは患者の家と近所の写真を合計17個用意し、患者に見せたところ、患者はどの1つも再認することができなかった。しかし、彼は自身の記憶から、庭に植えられた木、フェンスの模様、郵便受けの形、窓の形を述べることができ、自身の家および自身の住む町の正確な地図を描くことができた。
一方、空間表現に関する検査では、これらの患者は一般に何の障害も示さなかった。患者S.E.、M.S.、およびJ.C.は、Corsi span、Corsi supra-span、stepping-stone mazesを含む空間学習および知覚課題で正常な成績を示していた。一般に、これらの患者では、経路叙述および馴染みのある場所の地図描画能力は損なわれていない。先に論じたように、保たれた空間表現に関するこれらの寓話的検査は、必要とする認知機能の具体的性質についてかなり曖昧であるため、ある程度注意して取り扱う必要がある。しかし、A.R.とA.H.では詳細な道順説明能力が完全に保たれており、S.E.、A.H.、高橋らの患者が作成した詳細かつ正確な地図は、完全に保たれた空間表現を示唆するものであった。さらに、病前に馴染みがなかった場所の地図を、患者が正確に描くことができたという報告は、特に説得力があるものである。この場合、この患者においては、探索経験を他中心的空間表現に変換する空間表現能力が保たれていたとしか考えられない。
ランドマーク失認では、いくつかの神経心理学的異常が認められることが報告されている。特に、相貌失認や色彩失認、およびある程度の視野異常が認められることがしばしばある。これらの異常は必ずランドマーク失認に伴って起きるというわけではないし、地誌的失見当識なしに起こることもある。よって、これらの障害が地誌的失見当識の原因となっている可能性は低い。むしろ、ランドマーク失認を引き起こす障害部位が、相貌失認や色彩失認を起こす部位と、異なってはいるものの近接している、という可能性の方が高いと考えられる。
古典的な「連合型失認」のモデルによれば、患者は意味を持たない環境特徴の知覚自体は正常にできている。ランドマーク失認患者の中で、たった2例のみが知覚能力に関する検査をされている。患者A.R.はcathedral matching課題を正確にこなせたが、「彼は自ら、全体像ではなく、特定の細かな部分を参考にしていると言った。たとえば、窓やドアなど ... 彼は、場所を同定する際に、わざわざ細かな特徴に基づいた消去法的な方法で行っていた。」患者J.C.は建物のマッチング課題を完璧にこなしたと報告されているが、彼のやり方の特徴については詳細な記載はなく、正常対称もほぼ満点を取れるような課題であった。したがって、このような患者では、知覚能力に関するさらなる追求が必要と考えられた。最後に、患者S.E.では、視覚的な障害に加えて、建物に関する (言語モダリティによる) 意味知識の喪失も認められていた。他のランドマーク失認患者ではランドマークの意味知識の検査は行われていないため、ランドマーク失認患者で一般に意味知識の喪失が見られるかどうかはわからない。やはり、さらなる研究が必要と言えよう。
ランドマーク失認の特徴としてさらに追加しておくべきなのは、これらの患者が用いる補完的戦略である。患者J.C.についての記述は典型的であった。「彼は道の名前や駅の名前、家の番号に非常に依存していた。たとえば彼は、目的の店に行くためには、信号機で右に曲がり、映画館で左に曲がる、ということを知っていた。...  職場が変わると、彼は通勤経路の図面や、新しい職場の建物の内部の図面を描く。彼はこれらの地図と図面を頼りにしている。... 自分の家は番号でわかるし、車は玄関に停まっていればわかる。」
この環境の細かな特徴への依存は、ランドマーク失認患者では一般的であり、その認知障害の本質に関する洞察を与えてくれる。第一に、これらの患者が環境内の位置の空間的側面を表現する能力を正常に保っているのは明らかである。細かな環境詳細を探索に生かすためには、患者は空間情報を特定の分岐点 (右か左かに曲がるなど) に関連付けることが出来なければならない。この点からも、これらの患者で空間表現が保たれていることが示唆される。第二に、ランドマーク失認と呼ばれてはいるものの、彼らはどんな環境内オブジェクトも方向付けに用いることができないというわけではない。むしろ彼らは、環境内で特に際立った特徴 (たとえば建物など) の活用や、自然物や人工物をシーンに組み込むことに特異的な障害があるように見える。実際、これらの患者は建物の中で方向感覚を失うため、ある場所と別の場所を区別するための刺激の構成を表現できなくなったことが示唆される。このように、ランドマーク失認患者を注意深く研究することは、ランドマークの選択と利用という規範的なプロセスについて、かなりの洞察を与えてくれると思われる。
ランドマーク失認を説明しようとすると、探索行動に必要な視覚情報を表現する皮質領域の存在が考えられる。この領域は、経験を通じて、目印となる価値のある (すなわち、探索に役立つ) 環境の特徴や、視覚的配置を表現するようになると考えられる。このように空間的に分離された特殊な領域は、ランドマークと他のランドマークとの自然な相関関係によって発達するのかもしれない。この領域の損傷は、報告されているランドマーク失認の症例に見られるような欠損のパターンを生じさせるであろう。また、ランドマーク失認のモデルでは、ランドマークに基づく地形的失見当識は、一般的な物体失認や相貌失認を引き起こすのとは「まったくもって」異なる障害であると明確に述べていることに注意する必要がある。その代わりに、ここで提案したい仮説は、例えば顔の知覚に関与する他の「腹側処理」領域とは異なる、地誌的情報の表現に特化した神経解剖学的基質が存在するということである。
興味深いことに、ランドマーク失認をきたす障害部位はクラスターを形成している。患者J.C.とM.S.を除き、ここで紹介したランドマーク失認患者はすべて、両側または右半球の内側後頭葉から紡錘状回、舌状回、そして時に海馬傍回を含んだ領域に障害を持つ。この障害の最も一般的なメカニズムは、右後大脳動脈領域の脳梗塞である。
近年の神経画像研究によって、腹側皮質の構成が提案されている。我々は、fMRIを用いることで、他の種類の刺激 (顔、車、一般的物体、位相ランダム化した建物) と比較して、建物に特に強く反応する皮質領域を同定した。この「建物」に強く反応することが示された領域は、右舌状溝の前端から海馬傍回の後方に広がる領域である。この部位と、この部位が示す反応は、ここで提示したランドマーク失認モデルの推測ときわめてよく一致している。この「建物感受性」皮質は、他のグループによっても再現されている。
まとめると、地誌的情報の表現に特化した皮質領域の存在が証明され、ランドマーク失認の病態を強く支えていると考えられた。これらの患者は地誌的失見当識の中で最もよく研究されており、さらに患者数も最も多いと考えられた。これらの患者が示す障害についてさらなる研究を行うことは、際立った環境ランドマークの選択および利用に関与する視覚システムの構成を理解するうえで重要である。

5-4. 前向性地誌的失見当識 (anterograde disorientation)
ここまで述べてきた地誌的失見当識の全ての症例は、馴染みのある環境および新機能環境の両方である程度の障害を示してきた。この発見は、同一の神経基質が特定の種類の情報の知覚と長期記憶の両方に関与しているとする皮質記憶のモデルと合致する。しかし、主に新規の環境でのみ地誌的失見当識を示す症例も報告されている。興味深いことに、Rossが報告した2人の患者と、Paiの報告した1人の患者、そしてHabibとSiriguの報告した2人の患者で認められたこの前向性失見当識では、ランドマーク認知および空間表現の両方に影響が及んでいた。以下の記述は、Rossの1人目の患者についてのものである。

彼が抱えていた最も大きな問題は、完全に人の顔が再認できないこと以上に、空間見当識の問題であった。大学のキャンパスの周囲で散歩をするにも、学校と家の間を行き来するにも、彼は常に地図や自分のノートを見る必要があった。... 彼は空間内の物体に手を伸ばす動作は正確に可能であった。... 彼は自分の身の回りの環境を移動するのには何の困難もなかった。もちろん、目が見えていない様子もなかった。それにもかかわらず、彼は病院にいた一ヶ月の間、神経病棟の空間構成を学習することができなかった。病棟の地図を描くように言われたとき、病棟を歩かせればこの作業はできたが、記憶から作成することはできなかった。... この患者は、新たに6ヵ月間居住した3部屋のアパートでも混乱を見せていた。一方対照的に、彼が育った実家では、空間的な方向感覚に全く問題を見せなかった。

これらの患者4人は全員、少なくとも発症の6ヶ月前より以前から知っていた環境では、正常な探索が可能であった。Rossらの患者1は、両親の家の非常に正確な地図を描くことができた。HabibとSiriguの症例1と症例2は、自身の町のよく知っている場所では、方向感覚に問題がなかったと報告されている。これらの患者は、見慣れた場所や建物の写真の再認検査でも「多少の遅れはあるものの、全体的に成功した」と報告されている。また、これらの患者はG.W.やM.N.N.の患者のような、全般的な空間見当識障害は示さなかった。その代わりに、彼らの障害は、主に新たな環境の地図を記憶から作成できないこととして現れた。ただし、Rossらの患者1では、自己中心的空間における物体の位置の遅延再生も障害された。
新規の環境では、彼らは極めて重度の障害を示した。HabibとSiriguの研究では、症例1は病院内の経路を学習することができなかった。「心理検査室から自身の病室に戻る際、彼は病棟をあちこちにさまよい、部屋番号に頼らなければ帰室することができなかった。」また、「自室からオフィスへの単純な経路を地図に描いてもらったところ、彼は経路上必要な曲がり角などを常に省略し、さらに主要なランドマーク (エレベーター) に関してオフィスを誤った位置に配置した。」また、症例2は「店の窓の印字や道路の名前など、言語的目印に注意を払う必要があった」と報告されている。Rossらの2番目の症例は、入院して6日目になっても失見当識を示していた。
Rossは、これらの患者に見られる障害を、直近の視覚的記憶の喪失に起因するものと考えた。彼の報告した患者は、触覚および聴覚から伝達される情報を問題なく学習し、想起することができた。しかし、比較的非言語的な物体を見せられると、数分後には4つの類似した物体の中からその物体を選ぶことができなくなった。これらの知見と一致して、HabibとSiriguが報告した患者は、Wechsler Memory Scaleにおいて言語的記憶と比較して視覚的記憶に障害があり、Rey-Osterreithの図形の想起において非常に悪い成績を示した。
これらの症例では、病変部位はいずれも右半球の下部腹側皮質内であった。この一般的な部位は、ランドマーク失認で報告されている部位と類似しているが、少なくともHabibとSirigu、Paiの症例では、海馬傍回の中でもより正確な位置を示すことができる。この障害とランドマーク失認でみられる障害にはいくつかの類似点があるため、これらが共通のシステムに対する病変の異なる症状ではなく、2つの別個の実体であることを決定的に証明することはまだできていない。しかし、このグループでは前向性障害が圧倒的に多い。宣言記憶の形成にこの領域が関与していることが知られていることから、損傷の重要な部位は側頭葉内側 (すなわち海馬傍回 )内にある可能性が示唆されている。
最近の神経心理学的報告では、海馬傍回の病変の影響についての検討が行われている。片側側頭葉内側に病変のある20名の患者 (右半球と左半球で半分ずつ) を対象に、ビデオテープによる経路学習課題を行った。これらの患者では逆向性地形的失見当識が否定され、測定可能な範囲では一般的な記憶障害を持たなかったが、経路学習と多中心的位置判断の検査では対照群と比較して障害がみられた。20名全員が海馬傍回を外科的に切除されていたが、著者らは小切除 (海馬を除く) と大切除 (海馬を含む) の患者群間の成績や臨床症状の違いについて、コメントをしなかった。興味深いことに、左右の切除を受けた患者の障害はほぼ同等であった。別の報告でも、左右の効果は異なるが、海馬傍回の地誌的学習への関与が示唆されている。側頭葉内側に明確な熱凝固性病変を有する14名の患者を対象に、Morris Water Mazeの人間版検査を行ったところ、右海馬傍皮質に病変のある患者は、左海馬傍皮質、右または左海馬に病変のある患者、およびてんかん患者対照者と比較して、より強い障害が認められた。
このように、海馬傍回は新たな地誌的知識の獲得に必要な何らかの演算を行っているというエビデンスがある。皮質入力(尾側視覚野下部、脳梁膨大後皮質、上頭頂小葉など) に基づき、海馬傍皮質の広義の空間学習に特化した役割が以前から提唱されている。また、このように、他の皮質領域の病変もまた、さまざまな種類の失見当識を引き起こす。このように、海馬傍皮質は、特定のランドマーク (腹側後頭側頭葉領域で表現される) と特定の空間関係 (後部頭頂皮質や脳梁膨大後皮質で表現) を関連付ける位置にある。
特に興味深いのは、自由に動くサルの海馬傍皮質領域に関する最近の神経生理学的研究である。Rollsらは、サルが環境の特定の部分を見たときに反応する「spatial view cells」を同定した。これらの細胞集団は、空間内の特定の物体の位置を符号化したり、あるいは詳細な環境内の他中心的な位置の表現を構築するために使用されるかもしれないと著者らは示唆している。また、「地誌的」認知過程を分離しようとしたヒトの神経画像研究でも、海馬傍回の活動が確認されている。
EpsteinとKanwisherによる最近の研究は、海馬傍回の機能的活動に関して、より考察に役立つ観察を提供した。海馬傍回で誘発される活動は、「場所」、すなわち部屋や外の風景などの空間的に広がりを持つ写真の提示によって特に強くなることが示された。さらに、これらの反応は、その部屋の写真が何かしらの物体を含んでいても、裸の壁のみの写真であっても、同等であったのだ!これらの発見は、サルで同定された「view cells」を考えると特に興味深い。このように、いくつかの異なった手法を用いることで、海馬傍回が地誌的情報を表現しているという主張が生まれてきている。

 

6. 海馬
場所の知識に関するどんな議論も、海馬に言及せずに終わらせるわけにはいかない。この古皮質領域は、ラットで環境内の特定の場所にいるときに優位に反応する「場所細胞」が認められているように、環境表現の研究において特別な重要性を持っている。この発見から、海馬が学習した環境に対する「脳内地図」を持っているという考え方が導かれた。地誌的学習における海馬の重要性に関するさらなるエビデンスとして、Morrisらは海馬損傷ラットで場所学習の検査、すなわちwater maze課題を実施し、その成績が低下することを示した。その後、海馬が持つ空間表現における特異的な役割についてまとめた報告が出版された。少なくとも、齧歯類で海馬の両側に損傷を加えると、water mazeのような「場所」学習課題で極めて重度の障害が生じることは、議論の余地はない。
齧歯類に比べると、ヒト海馬が持つ他中心的空間表現における重要性を実証するのは難しかった。静止した患者に固定的な刺激を提示する空間記憶検査は、海馬が柔軟な地図様の表現を有しているはずだという「脳内地図」仮説を考えると、厳密には重要とは言えない。興味深いことに、ヒト海馬の片側の障害では、現実世界の探索障害を来さないという報告もある。両側の海馬 (および隣接構造) の損傷後に全般的な前向性健忘をきたした患者において、前向性の地誌的障害が起きたのかどうかについては、明確にはコメントされてはいない。しかし、存在するとしても、地誌的な障害は他のドメインでの記憶障害に伴っているだろう。また、これらの患者における探索知識の逆行性損失は、他の領域における損失とほとんど変わりなく、さらに保存もされうる。これらの知見に基づき、もし海馬がヒトの地誌的空間の表現に本当に必要であるならば、(i) この機能を支えるには片側半球で十分であり、(ii) 以前に学習した場所での探索には海馬がなくても可能であり、(iii) 場所学習は海馬を必要とする多くの種類の知識のうちの一つでしかない (すなわち、場所学習は宣言的記憶の一種) と言わざるを得ない。

 

7. 結論と将来の方向性
我々は、既存の地誌的失見当識の症例を集め、分類を試みた。この分類法のいくつかの部分、特に自己中心的地誌的失見当識とランドマーク失認は、神経心理学エビデンスによって十分に支持されていると思われ、電気生理学的研究および機能画像研究の結果とも一致している。しかし、その他の構成要素については、今後の神経心理学的研究および画像研究による確証が必要であり、暫定的な呼称にとどまっている。特に、いくつかの未解決の問題が残っている。ランドマーク失認の場合、重要な病変部位にどのような視覚情報が表現されているのかが不明である。この領域はすべての「ランドマーク」情報の表現に関与しているのか、それとも単にランドマークとして使用される特定の物体クラスの表現に関与しているのか?この障害を持つ患者の認知機能を注意深くテストすることによって、この皮質領域の表現の責任がより明確になり、目印として使用する視覚的対象物の標準的な選択について情報を得ることができるだろう。
また、前向性地誌的失見当識は個別の障害なのだろうか?この分類に関連する海馬傍回の病変部位は、ランドマーク失認で同定された部位と非常によく似ている。さらに、神経画像研究により、海馬傍回と舌状回前部が地誌的表現と関連して活性化されることが分かっている。これらの皮質領域は密接に隣接しており、実際、両者を区別する明確な解剖学的境界は存在しない。今後、前向性地誌的失見当識とランドマーク失認に関連する皮質部位が実際に存在するのか、また、これらの部位の機能的挙動が異なるのかを明らかにする必要がある。

地形的失見当識に関する文献の幅広さと異種性は、負担であるとともに、機会でもある。研究対象の行動が複雑であるため、症例の整理が困難である一方で、地形的失見当識は、いくつかの興味深い認知過程の統合と組織化を考察するための通り道を提供してくれる。物体再認、空間表現、記憶、あるいは他のいくつかの分野のいずれかに興味を持つ人々は、ここで検討された事例の考察を通じて、これらの基本的な認知過程に対する洞察を得ることができるかもしれない。

 

感想
面白かったー!こんなに昔から、ここまでしっかりと考察を行った論文が存在していたとは思いませんでした。導入の部分、よく読んでみるとすごい重要なことがたくさん書いてあって、たとえば「地図描画などの地誌的検査は特定の病態を反映しているわけではなく被験者が用いる戦略によってできたりできなかったりする」なんてのはもっともだと思いますし、心理検査を解釈する上で非常に重要なのだと思います。また、「患者の訴えにこそ病態の本質あり」という趣旨のことも書いてあって、それもごもっともだと思いました。
地誌的失見当識の4つの分類は、同等に確からしいものだと思っていたのですが、読んでみると確からしさのテンション感がけっこう違うなと感じました。ランドマーク失認は症例が多くて特徴も共通しているしfMRI研究もランドマーク表現に関与する部位 (要はPPA) が認められているためかなり確からしいけれど、道順障害はまだまだ症例が少なくてこれからの研究が大事だよと言っているし、前向性地誌的失見当識については観察できた限りで症候学的にそういう集団がいることは確かなんでしょうけれど、障害ドメインが地誌に特異性なのかどうかが微妙な気がしていて (まあ自己中心的地誌的失見当識も地誌に特異的じゃないんですが)、さらに責任病巣については「海馬傍回が関与する」というすごい低解像度なことしか言えてなくて、一概に信じていいものとは思えませんでした。やっぱり高解像度の画像研究がとっても大事。個人的には、前向性地誌的失見当識は、視覚性の前向性健忘の表現型の1つと言うべきなのかもしれないと考えています。なお、自己中心的地誌的失見当識は、意外にも結構な確信度をもって語られていました。
ところで、自己中心的空間表現は後部頭頂皮質で符号化されているという趣旨のことは各所で書かれていますが、それをサポートするエビデンスは、他中心的空間表現に比べるとだいぶ乏しい気がしています。僕自身頭頂葉のことを何も知らないので、ただ勉強不足なだけかもしれませんが。今度はそのあたりをしっかり調べてみようかな。